書評:『物価を考える デフレの謎 インフレの謎』

物価を考える デフレの謎 インフレの謎/渡辺努

日本は長く続いたデフレを抜け、物価と賃金が年率2%前後で上昇する「インフレ局面」へと移行しつつあります。

けれども――
なぜ今、インフレが始まったのか?
なぜ日本は30年もデフレだったのか?

本書は、この素朴でいて重たい問いに、データと理論を用いて真正面から向き合います。


■ インフレはなぜ始まったのか?

インフレの始まりは、需要の急拡大ではありませんでした。

2021年春、パンデミック後の混乱により米欧でインフレが発生。物資や労働の供給制約が主因でした。その波が2022年春、日本にも到達します。

つまり、今回のインフレは「需要過多」ではなく「供給ショック」から始まったのです。

しかし著者は、単なる外的要因だけでは説明できないと指摘します。
外からのインフレの波が、日本国内の構造変化を引き起こした――そこが重要だと。


■ 日本のデフレはなぜ終わったのか?

本書のキーワードは「自粛」です。

  • 企業は値上げを自粛
  • 労働組合は賃上げを自粛

互いに相手の出方をうかがい続けた結果、価格と賃金が硬直化しました。これが日本版デフレスパイラルです。

1990年代以降、約30年間にわたり慢性的デフレが続いた国は、世界的にも極めて異例。
しかも日本人は「1年後の物価もほとんど変わらない」と考える人が突出して多いというデータも示されます。

象徴的なのが「値上げへの過敏さ」です。

ガリガリ君の値上げで社長が謝罪した出来事。
正当な価格改定で客足が減った鳥貴族の例。

価格を据え置き、内容量だけ減らす「ステルス値上げ」が横行する社会。

もし人々が「物価は上がるもの」と受け入れていれば、こうした現象は起きないはずだ――という指摘は鋭いものがあります。


■ 2022年春、何が変わったのか?

著者は2022年春をターニングポイントと位置づけます。

変化は主に3つ。

  1. 消費者のインフレ予想が上昇
  2. 値上げ耐性の改善
  3. 企業の価格転嫁が広がり、賃金上昇へ波及

2023年春闘では30年ぶりの高水準賃上げが実現。
ようやく「価格と賃金が追いかけっこする」普通の経済に近づき始めました。


■ 慢性デフレを支配していたもの

デフレの原因は需要か、供給か。

著者は「売り手側」に原因があったと考えます。

ここで登場するのが「ソーシャルノルム(社会的規範)」という概念です。
値上げ自粛・賃上げ自粛は、日本社会を覆う暗黙のルールでした。

コロナ禍で見られた「自発的ロックダウン」と同様、消費者自身がその規範の監視役になっていたのです。

デフレとは、単なる経済現象ではなく、社会心理の問題でもあった。
この視点は非常に示唆的です。


■ インフレやデフレはなぜ「悪」とされるのか?

すべての価格と賃金が同率で動けば問題はありません。
問題は「ばらつき」です。

価格のばらつきは、人々の消費や生産の判断を歪めます。

特に慢性デフレでは、「悪いばらつき」だけでなく「良いばらつき」まで抑え込まれ、労働生産性と賃金のズレが固定化してしまう可能性があります。

安定しているように見えて、実は健全ではない――。
これが慢性デフレの怖さです。


■ 異次元緩和はなぜうまくいかなかったのか

2013年以降、日本銀行は大胆な金融緩和を実施。
マネー供給量は約5倍(135兆円→656兆円)に拡大しました。

しかし想定された経路――

  • マネー増加 → 金利上昇
  • 総需要増加 → 物価上昇

は十分に機能しませんでした。

金利が低すぎる環境では資金が市場に回らず、タンス預金や金融資産の偏在が進む。

また「国際金融のトリレンマ(資本移動の自由・為替安定・独立した金融政策は同時に成立しない)」という制約も存在します。

今後、日銀が向き合う課題は――

  • マネー量をどの水準にするのか
  • 大量保有する国債をどう扱うのか

極めて難しいテーマです。


■ 読後感

本書の魅力は、専門的でありながらも、私たちの日常と地続きである点です。

ガリガリ君の値上げ、春闘、若者の海外流出――
どれもニュースで目にしてきた出来事ですが、本書を読むとそれらが一本の線でつながります。

日本は本当にデフレを脱却したのか。
それとも一時的なインフレなのか。

そして私たちは「値上げを受け入れる社会」へ変われるのか。

物価は、単なる数字ではありません。
社会の空気そのものなのだと実感させられる一冊でした。

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